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Ladygrey

彼女は船長

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初期のキャリア
1925年の秋、当時 17 歳だったアンナ・シティニナ ( Anna Shchetinina ) は、ウラジオストク海洋学校の航海科に入学しました。彼女は在学中に副業を持っており、漁船や商船で航海に赴いていました。卒業後の彼女の 6年間のキャリアは、目覚ましいものになりました。航海士として、三等航海士、次いで二等航海士に昇進したのです。そして当時 26歳だった1934年に、蒸気船オロコン ( Orochon ) の航海長になりました。これが女性としては世界初の外洋船長の物語の始まりでした。

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船長としての初航海
1935年、ハンブルグにおいて蒸気船ホーエンフェルス ( Hohenfels ) にソ連の船長として乗船しました。これはアンナ・シティニナにとっての最初の航海ではありませんでしたが、全長 100m、排水量 3,500トン、乗員数 50名の船の総責任者を務めたのはこれが初めてのことでした。ソ連によって引き取られたホーエンフェルスは船名をチャヴィチャ ( Chavycha ) へと改称し、ソ連の赤い旗を掲げてハンブルクからオデッサへと移動しました。次いで、満載状態でインド洋および太平洋を渡り、ペトロパヴロフスク・カムチャツキーに至りました。そしてその後 3年に渡り、アンナ・シティニナはこのチャヴィチャに乗船してオホーツク海およびベーリング海で任務を務めたのでした。その内容としては、海路でのみ行くことが可能な場所に積荷や乗客を輸送したり、日々の生産問題を解決したり、といったものであり、流氷の中で 11時間もの間漂流したこともありました。1936年には、この厳しい任務を称え、労働赤旗勲章を受章しています。

その 2年後、彼女はウラジオストク漁港の最初のチーフマネージャーになりました。しかしながら、この新たな挑戦に臨むにあたって自分のスキルが不足していると考えた彼女は、30歳でレニングラード水上輸送大学に入りました。

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二次大戦
1941年08月26日 20:50、掃海艇と哨戒艇に護衛された 3隻の輸送船が、クロンシュタットとタリンのちょうど中間にあるゴーグラント島から出港しました。その目的地はドイツ軍によって包囲されたタリンであり、2日後にバルチック艦隊の艦艇がこの都市の防衛部隊を撤退させるべく到着する予定になっていました。しかしながら船団は機雷原に捕まり、掃海艇 1 隻が破壊され、他の掃海艇も掃海用の装備を失い、輸送船はゴーグランド島に戻らざるを得ませんでした。そして、08月27日、ドイツ空軍の爆撃機 15機がこの船団を攻撃したのです。当時中佐だった I・スウィヤトフはこう回想しています:

スールグラ湾から半マイル離れたゴーグランドに到着した際、配置に付いていた貨物船ソール ( Saule ) の姿を認めました。この船は炎上中で、最初は甲板上には誰の姿も見えませんでしたが、近づいてみると、商船の船長の制服を纏った女性の姿を見つけました。彼女は私たちにこう語ったのです。「ゴーグランドに接近中だった私たちの船を、1機の敵機が襲いました。2 発の爆弾が船の近くで爆発し、船体上部がその破片の貫通により大きな被害を受け、石炭庫に引火しました。乗員は退船済みです。私はシティニナ、本船の船長です」

海軍の水兵達が消火活動に協力し、船は島へと辿り着きました。その後、ドイツ軍機による攻撃を繰り返し受けながらも修理を行い、船体の破孔を塞いだ後は操舵装置とメインコンパスが損傷したままの船を操り、何とかレニングラードまで移動させることに成功しました。様々な功績により、アンナ・シティニナは 1942年の夏に赤星勲章を、その後にレニングラード防衛記章を受章しました。

太平洋
1942年、シティニナは蒸気船カール・リープクネヒト ( Karl Liebknecht ) に配属されましたが、この船は修理のためにウラジオストクからカナダのバンクーバーまで移動する必要がありました。その次の仕事はアメリカのシアトルで修理を受けた蒸気船ロディーナ ( Rodina ) であり、レンドリース法によって提供されたの積荷を輸送してソ連各地の港へと数回の航海を実施しました。そして 1943年の前半、アンナ・シティニナはロサンゼルスにおいてそのキャリアの中でも最大の船、リバティ級貨物船である蒸気船ジャン・ジョレス ( Jean Jaures ) を任されました。そして日米が戦争を続ける最中、太平洋の北部を 17回も渡ったのです。船はアラスカ湾で損傷し、陸から 500マイル離れた場所で船体の中央部に裂け目が生じました。それでも彼女の船長としての熟練の技術のおかげで、ジャン・ジョレスは辛くも惨事を回避し、最も近い港に至ることができたのでした。1945年、本船はソ連の兵員を南サハリンへと移動する船団で使用されていました。そして二次大戦後、アンナはレーニン勲章 ( 2種目 ) および祖国戦争勲章 ( 2級 ) を受章しました。

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キャリアの終わり
シティニナは 1949年までバルト海において数隻の船の船長を務めました。輸送船メンデレーエフ ( Mendeleev ) の船長を務めていた際には、ドイツ軍がペテルゴフから奪った美術品コレクションを祖国へと輸送する任務にも従事しています。そして1950年、アンナは修士号を取得し、船長としてのキャリアを終えたのでした。彼女はその後教師となり、レニングラード海洋工学大学の航海科長を務め、未来の船乗りの育成に尽力しました。そして 1960年、アンナにはソ連の民間人における最高栄誉である社会主義労働英雄の勲章が授与されたのでした。

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アンナ・シティニナは、1999年に死去しました。そして 2017年02月、ロシア政府の長は、千島列島の島のひとつに、女性初の外洋船長であった彼女の名前を付与することを命じました。
アンナ・シティニナは、常に海と共にありました。彼女はここで人生の最盛期を過ごしたのです。

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