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Ladygrey

歴史特集 : 大戦艦ビスマルクを追え

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艦長の皆さん!

 

以前から告知していたイベント「ビスマルク追撃戦」の主役、戦艦ビスマルク ( Bismarck )。

史上、最も巨大な戦艦のひとつでもあるこの戦艦の歴史に、今回はスポットを当てていきます。

戦場に赴き、この屈強な戦艦を相手取る前に、是非ここでビスマルクの歴史を学びましょう。

 

Action Stations!

 


 

大戦艦ビスマルクを追え

時は遡ること、1935年の夏。シャルンホストや戦艦グナイゼナウらが建造された。これらの戦艦は余裕を持ったの積載量のもと設計されており、兵装は決して強力なものではなかったが、腐っても戦艦であった。しかし後の専門家らは、戦艦よりも巡洋艦という言葉を用いて記述する場合が多い。

そしてグナイゼナウらの完成直後に、「英独海軍協定」が結ばれた。この協定によって多くの制限が掛かり、実質ドイツ軍は戦艦開発全体の見直しを余儀なくされたのだ。以降、潜水艦を除いたドイツ海軍の各艦級の容積トン数は、イギリス海軍が保有する戦艦類の65%未満となった。それまでの開発制限とは異なり、これによりドイツ海軍の艦隊開発スピードは著しく低下し、経済的な理由からも建造期限を超過することが増えたのは仕方のない事態だったのだ。

 

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ハンブルクの埠頭にて、建造の最終段階に入った戦艦ビスマルク

 

ビスマルクを語る上では外せない、いくつかの特徴をご紹介しよう。

強靭な防御力、主砲に 4基 8門 の 380㎜ L/52 を搭載、時速 30ノット(約 55.6㎞ )の船速、全長251メートルにも及ぶその巨体、15万馬力にも及ぶ 3つの蒸気タービン、そして最後に、艦を動かす 2,200人の乗組員だ。

 

実際のビスマルクの進水は、1939年の 2月に行われた。公式式典の最中にアドルフ・ヒトラーを立会人とし、ドロシー・シビル・カタリナ・フォン・レーヴェンフェルトにより洗礼を受けた。ちなみに彼女は、「鉄血宰相」の異名で有名なオットー・フォン・ビスマルクの孫娘である。

その後、1940年の 8月頃に、艦隊へと任命され、艦の指揮はエルンスト・リンデマン大佐に任された。そうして 1941年の夏頃には、戦艦ビスマルクは戦争に加わる準備を終えたのだ。

 

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ベルゲンに停泊する戦艦ビスマルク

 

しかし、強力な戦艦 2隻を擁しているにも関わらず、ドイツ艦隊は、15隻の戦艦や巡洋艦を擁するイギリス海軍と正面から戦うことはできなかった。ドイツ艦隊の司令官、エーリヒ・レーダー提督はその現実を真正面から受け止め、「艦隊の弱さ、そして艦隊の戦略的重要度」を繰り返しヒトラーへと進言していた。

それらの要因から、イギリス軍との本格的な戦争で実際にドイツ艦隊ができた事と言えば、先の戦争でその有用性を証明した奇襲作戦のみであった。ドイツ艦隊の目的は、海軍での主権を握ることではない……というより、当時与えられた力では到底そこまで成し得ることは不可能だったのだ。それよりも、奇襲作戦を用い、イギリスの供給ラインに致命的な混乱を招くことだけに注力した。

戦艦ビスマルクに与えられた初任務の内容はまさにその「奇襲」であった。大西洋に展開し、護衛船や輸送船を襲撃すること。艦隊にとっては、強力な戦力を保持する敵軍との真正面からの戦闘は、絶対に回避しなくてはならない事項だったのだ。

 

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1940年、戦艦ビスマルク

 

それでも、真正面からの戦闘の危険性や可能性はゼロにはならなかった。当初、ビスマルクには複数の船が護衛につく予定だったのだが、ある説ではその護衛は、ドイツ海軍が保有するほぼすべての巡洋艦であったという話もある。即ち、シャルンホスト、グナイゼナウ、そしてティルピッツだ。しかし当時、ティルピッツはまだまだテスト運用の段階であり、本格的な海戦に参加する準備は整っていなかった。グナイゼナウはイギリス空軍の攻撃により激しく傷つき長期的な補修を強いられ、シャルンホストはといえば、乾ドックにて機関部の修復を受けていた。

それらを踏まえて調整を行い、作戦決行日が決まり、作戦名は「ライン演習」と名付けられた。

 

1941年、5月18日。

ギュンター・リュッチェンス提督の指揮の下、重巡洋艦プリンツ・オイゲンの護衛を受けながら、ビスマルクはゴーテンハーフェンより出港した。

その次の日、リューゲン島付近にて Z-23、Z-10、そして Z-16 も護衛に加わった。

北大西洋の地図を見た時、ドイツの領域は地理的に、海軍作戦行動に全く適していないという点に気付く人もいるかもしれない。最短の航路は、英仏海峡を突っ切るルートしかないのだ。

しかしこの航路を大きな戦艦がひとたび通れば、すぐに索敵され、直ちにイギリス艦隊の激しい攻撃に晒されることは必至。それよりも、ビスケー湾を通るほうが魅力的に思えたのだ。フランスの降伏後、この周域はドイツ軍の占領下にあり安心感もある。しかし、大きな問題点がひとつ。そのルートだと、目的地が遠すぎたのだ。

ビスマルクの航路は海岸沿いにノルウェーまで伸び、さらにアイスランドに沿って北へと続いた。アイスランドとグリーンランドの間を通り、更にデンマーク海峡を過ぎ……友軍の空軍支援が受けれない領域まで来た時、ビスマルクは北大西洋へ進入し状況に合わせて作戦行動を取る予定だった。

当初の目的通り、敵輸送船を奇襲し、資源を奪取。

艦隊の最終的な目的地は、フランス領内のビスケー湾であり、ブレスト港にて、シャルンホストとグナイゼナウが合流する予定であった。

その後の任務は、他の艦との共同作戦だ。

 

5月20日。

艦隊はカテガット海峡を通過したが、午後1時頃……スウェーデンの空母、ゴトランドによって索敵されてしまう。

ゴトランドは直ちにストックホルムへと報告をし、付随してその情報はイギリスにも伝わった。その日の夜には、ドイツ艦隊がカテガットで発見された旨はロンドンにまで届いたのであった。

当の発見されたビスマルクだが、ゴトランドのこの通信を傍受しており、リュッチェンス提督はすぐに無線電報を飛ばしドイツ軍本部に報告していた。提督は周囲の評価が大変高い、有能な軍人ではあったが、見方によっては古臭い人間であり、作戦や戦闘行動中に通信を控えることを良しとしなかったのだ。

陽が沈み、クリシティアンサン近くで海峡を抜けた時、ビスマルクの艦隊はノルウェーのゲリラ隊員ヴィーゴ・アクセルセンによって発見される。彼が、この貴重な情報をイギリス本軍に報せた張本人である。艦隊の位置は、完全に捕捉されてしまった。

 

5月21日。

イギリスの航空機が、ベルゲン港に停泊するこの巨大な艦の偵察写真の撮影に成功していた。写真の解析を元に、ビスマルクの詳細はとうとう敵へと渡ってしまったのだった。

直ちに重巡洋艦ノーフォーク、重巡洋艦サフォークがダニッシュ海峡のパトロールへと派遣され、巡洋戦艦フッド、戦艦プリンス・オブ・ウェールス、そしてその他 6艦にも及ぶ駆逐艦がアイスランドへと派遣された。

時同じくして、ドイツ艦隊はベルゲンを出港。重巡洋艦プリンツ・オイゲンも補給を終えていた。

しかし……理由は明らかになってはいないが、ビスマルクは燃料の補給を完全に終えてはいなかったのだ。多くの歴史家は、リュッチェンス提督が補給内容をあらかじめ指示していなかった凡ミスを犯したのではという見解を示している。

しばらくして、駆逐艦数隻は艦隊から外れ、大型鑑らはデンマーク海峡を通りまっすぐに大西洋へ向かうこととなった。

 

5月23日、夜 アイスランド北部。

ドイツ艦隊は重巡洋艦サフォークの艦影をレーダーにて捕捉。通信を傍受した結果、自分たちの位置が敵に知られていることを察知し、警戒。

短期的な小戦闘にてその場を切り抜けた。

 

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重巡洋艦サフォーク
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ビスマルクと、それを追尾する船の航路を示したマップ

 

5月24日 早朝。

ドイツ軍は、巡洋戦艦フッドと戦艦プリンス・オブ・ウェールスから立ちのぼる煙を目視確認。

直ちに第一種戦闘配備が発令され、デンマーク海峡の戦いの火蓋は切って落とされた。

両軍、正面から接敵し、激しい砲撃の応酬が繰り広げられた。

最初に煙を上げたのはイギリス軍だった。雨のように降る砲弾が、巡洋戦艦フッドの後部に直撃、弾薬庫に引火。巨大な爆発を起こしながら船体は真っ二つに裂けた。彼女と共に、1,416人の乗組員がデンマーク海峡の海底へとその身を沈めた。

フッドを失い、戦艦プリンス・オブ・ウェールスは孤立。

彼女自体も7発被弾しながらも、その自身から出る煙を隠れ蓑に撤退。リュッチェンス提督は戦艦プリンス・オブ・ウェールスの追撃を禁じたのだが……これが後に物議を醸す事となった。

一方では、ドイツ艦隊はもう一隻敵艦を沈める機会がありそれを逃したのは大きな痛手だったのではという意見。

もう一方では、あれ以上デンマーク海峡に残っていると、他のイギリス艦隊と遭遇する危険性があったという意見。特に後者は、ビスマルクの状態と援護を望める友軍基地が近辺にないことから、非常な大きなリスクをはらんでいた。

ビスマルクも決して無傷ではなく、3発被弾し、船速が時速28ノットまで落ちており、更に浸水もしていたのだ。それらを冷静に鑑みて、リュッチェンス提督は修復のためにサン=ナゼールへ寄港する判断を下した。

 

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プリンツ・オイゲンから撮影された、フッドへ砲撃を行っているビスマルク

 

重巡洋艦ノーフォークとサフォーク両艦は、すぐにビスマルクの追撃に入った。一度撤退したプリンス・オブ・ウェールスも艦隊に合流し、更に西からは、ジョン・トーヴィ提督が率いる艦隊も迫っていた。その傘下には、戦艦キング・ジョージ5世、空母ヴィクトリアスの名が連なっており、それ以外にも護衛の巡洋艦や6隻の駆逐艦も帯同していた。

ジブラルタル方面からは空母アーク・ロイヤル、巡洋戦艦レナウン、軽巡洋艦シェフィールドも迫っていた。つまり、合計で8隻の戦艦と巡洋戦艦、2隻の空母、14隻の巡洋艦、そして27隻の駆逐艦が追撃に参加していたことになる。

同日の午後7時から午前1時までの間、両軍は一斉射撃で応戦したが、双方共々、戦果と呼べるような戦果があがることはなかった。リュッチェンス提督はプリンツ・オイゲンに艦隊の離脱を命令、戦艦ビスマルクは正真正銘、孤立無援となったのであった。

午後11時27分。

空母ヴィクトリアスから発艦したソードフィッシュ雷撃機が、ビスマルクに魚雷を一発命中させるも、大きな被害はなし。

5月25日 午前3時10分。

ビスマルクは進路を変え、追っ手を一時振り切ることに成功。悪天候だったのも彼らにとって有利に働いた。

午前7時から午前9時。

リュッチェンス提督は2通の通信を送り、これによりイギリス軍に位置を捕捉されてしまう。しかし目視確認がされたのは当日ではなく、航空機カタリナによって翌日26日の午前10時30分に発見された。24時間以上に渡り、ビスマルクは変則操舵を行いながら負傷箇所の修復を試みていたのだ。

ビスマルクが捕捉された時、彼女はサン=ナゼールから700マイル離れた距離にいた。

 

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アークロイヤルの頭上を飛行する、雷撃機ソードフィッシュ

 

ソードフィッシュが戦艦に攻撃を再開したのは、午後8時47分のたった一度だけだった。この攻撃中に、ビスマルクは魚雷を2発被弾し、その内ひとつは艦の舵を完全に封じた。ビスルマルクは、操舵不能に陥ったのだ。修理班は夜の大半を回復に努めたが、成果は得られず、リュッチェンス提督は最後の通信を発信した。「我、機動不可 最後の弾薬が尽きるまで応戦する」と……。

 

午後9時15分。

ドイツ海軍は以下命令を下した。

「魚雷が残っているすべての潜水艦は、直ちに全速力でビスマルクへと急行せよ」

友軍のすべての艦が、最後の戦いへと備え……そして向かっていた。

夜が更ける頃から夜が明ける直前まで、イギリスの駆逐艦は絶え間なく、傷ついたビスマルクを執拗に攻撃し続けたが、驚くことにその目的は達成されなかった。

 

5月27日 午前8時47分。

ビスマルクは攻撃を開始。

 

午前10時39分。

遂に、ビスマルクは至近距離からの直射によって悲鳴を上げる。多方面に展開しているイギリス海軍からの集中砲火により、反撃することもできなくなった。運命はほぼ決定しているにも関わらず、彼女は諦めることなく抵抗を続けた。

そして転覆しながら、ゆっくりと……ビスマルクは海底へと沈んでいったのだった。

もはや打つ手なしとなった乗組員たちは、水密扉や船窓開け放ち、狼煙をあげた。その結果僅かではあるが、イギリス軍は116名の船員を救出できたのであった。

その中に、リュッチェンスとリンデマンの姿は確認されなかった。

 

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重巡洋艦ドーセットシャーより撮影された、沈みゆくビスマルク

 

ビスマルクの任務は、多くの偶然、事故、ミス、そして幸運に溢れていたと言える。

5月26日の夜、雷撃機による爆撃の第一波が間違えて、軽巡洋艦シェフィールドを攻撃。しかしシェフィールドは無傷で姿を現したのだ。11発すべての魚雷が起爆に失敗していたのだ。

事が起きる数時間前には空母アーク・ロイヤルと戦艦レナウンが潜水艦U-556の前を通り過ぎ、絶好の魚雷攻撃の機会に恵まれた。しかし残念なことに、すでに魚雷は打ち尽くしていた後だった。

 

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ビスマルクの生存者が、イギリス重巡洋艦ドーセットシャーに搭乗している様子

 

ドイツが保有する最大の戦艦の初任務が壊滅的な結果を迎えたことに、当然のことながらアドルフ・ヒトラーは深い難色を示したのは、言うに及ばずだろう。装甲鑑グラーフ・シュペー損失に次ぐ、2番目に大きな損失となった。ちなみにグラーフ・シュペーは、ポケット戦艦という非常に珍しい艦級を冠していた。

そして、1939年の12月、モンテビデオの港にて自沈したのも有名な話だ。

とはいえ、ビスマルクが辿った運命を他の艦の最期と比べる事は非常に難しい。水上艦を含めたすべての海軍作戦は、これ以降非常に長い間中止となっていたからだ。作戦を続けていたのは北部のみで、多少ではあるが戦果をあげることはできたようだ。

ヒトラーは、多大な資金を投入した兵器を失う恐怖に取り憑かれる様になり、後に下す判断に影響を及ぼすことになる。

この恐怖により、結果として、「強力な戦闘力を有した戦艦を、戦闘に使用することを禁ずる」という有名な命令が下ることになったのだ。

2002年、ジェーム・キャメロン監督により" Expedition : Bismarck "と題した映像作品が発表された。撮影には、Akademik Mstislav Keldysh が保有する深海探査艇ミールが用いられた。

 

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沈んだビスマルクの上を航行する、深海探査艇の図 ケン・マーシャル画

 

 

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