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Ladygrey

Admirals of Japan : 三川軍一と第一次ソロモン海戦

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艦長の皆さん

歴史特集 「 Admirals of Japan 」 では日本の有名な提督と、その戦い方を見ていきます。

第四回目はガダルカナル島を懸けた戦いの初戦を白星で飾った三川軍一の堅実の作戦を紹介します。

 


 

三川軍一と第一次ソロモン海戦

1942年08月07日、ガダルカナル島(ガ島)にアメリカ軍が上陸してきたという情報に、日本軍は驚愕した。海軍設営隊がガ島に建設していた飛行場が、そのままアメリカ海兵隊に奪われて敵の拠点となってしまったのだ。だが数時間のうちには、ラバウルに司令部が置かれた連合艦隊第八艦隊の三川軍一艦隊司令が、手持ちの艦艇をかき集めるや反撃に出た。この瞬間より、以後半年間も続くことになる大消耗戦、ガダルカナル攻防戦が始まる。

そもそも、ソロモン諸島の東端に位置するガ島をめぐり、なぜ両軍の激しい攻防戦が行われたのか? 答えは両軍の戦略にあった。

香港、シンガポールを陥落させ、オランダ領インドネシアの資源地帯を占領した日本軍は、南方における第二段階作戦として、勢力圏を東に伸ばし、オーストラリアの孤立を狙った。この南半球の大陸は、アメリカの本格的な反攻作戦における根拠地となる。だから日本としては何としても孤立させ得なければならない。同じ理由で、アメリカも日本の東進を阻止する必要があった。ミッドウェイで大勝利して戦力は均衡したが、まだ日本軍はが優勢であった。もしこのまま彼らの艦隊がインド洋になだれ込むと、ドイツとの戦いで苦境に陥っているイギリスが一層孤立してしまう。そこで、手持ち戦力で反撃に出て、日本軍の目を太平洋に釘付けにする必要があったのだ。

 

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ソロモン諸島の制圧後、日本軍はフィジー、サモア方面まで勢力圏を伸ばしてオーストラリアの孤立化を図った。しかし1942年5月の珊瑚海海戦と翌月のミッドウェイ海戦の敗北により、第二弾作戦の規模は縮小された。そのさなかにガダルカナル島攻防戦が発生したのである。

日本の第八艦隊の陣容は次の通りだ。

旗艦 重巡 鳥海
  重巡 青葉、衣笠、古鷹、加古
  軽巡 天龍、夕張
  駆逐艦 夕凪

 

この時点で三川司令はアメリカ側、すなわち連合軍側の陣容を把握しきれていなかったが、練達の巡洋艦隊とその夜戦能力に絶対の自信を持っていた。ところが上陸部隊を支援する連合軍側の艦艇群は、重巡6隻、軽巡2隻、駆逐艦8隻と強力なものであった。

ラバウルを発した三川艦隊が、敵上陸地点のルンガ泊地に突入するには、ガ島北西からエスペランス岬をかすめてくるのが最短距離になる。当然、支援艦隊を指揮するクラッチリー少将もここに戦力を集中させていたが、対岸のフロリダ島の中間に、サボ島という直径8kmほどの小島があったため、島の南北で警戒艦隊を分割してしまった。さらに悪いことに、戦闘に突入した場合の指揮権が不明瞭で、日本艦隊が出現した場合の統一指揮も曖昧であった。

 

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アメリカ軍のガ島侵攻は日本軍にとって完全な奇襲であったが、三川提督の対応も迅速であった。戦力集結に時間をかけるよりも即応性を優先した奇襲反撃が第一次ソロモン海戦において、日本軍に大きなアドバンテージを与えたといえる。

8日早朝には連合軍の偵察機が三川艦隊を発見していたが、一部の巡洋艦を2隻の水上機母艦と誤認してしまった。上陸部隊の司令部では、日本軍が水上機基地を設置しようとしていると判断し、当面、ガ島への脅威は小さいと判断していた。これにより、連合軍側の警戒レベルが上がらなかったことで、三川艦隊の奇襲を防ぐすべは失われた。果たして三川艦隊はサボ島の南側からガ島海域に突入し、8日深夜に旗艦鳥海が先に敵艦を発見した。

三川軍一提督は1910年に海軍兵学校を149人中3番の優秀な成績で卒業した。日本海軍では、兵学校のハンモックナンバー(卒業時成績順位)が将来にわたり出世の鍵になる。上級将校の道を開く海軍大学校は選抜制であり、ハンモックナンバーが高くなければまず選ばれなかった。才能を認められた三川は1916年に海軍大学校に入学している。

 

三川は艦隊勤務において航海術を中心に学び、ヴェルサイユ講和会議や軍縮会議には随行員として選出されるなど、高級将校として望ましい経験を積んだ。1930年代には重巡青葉、鳥海、そして戦艦霧島の艦長を務め、1936年には提督となった。真珠湾奇襲では、空母機動部隊の前衛となる高速戦艦部隊を指揮し、続いてインド洋、ミッドウェイ作戦にも参加して、経験豊富な前線指揮官と目されていた。だが、ミッドウェイ作戦の失敗は、彼のキャリアに影を落とした。1942年7月に彼は第八艦隊司令長官に着任したが、その実と言えば旧式重巡4隻が中心の不揃いな艦隊で、この部隊が第二段階作戦でいかなる役割を果たすべきかという方針も定まっていなかったのだ。

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海戦に戻ろう。サボ島の南から水道に突入した三川艦隊は、見敵必戦の原則に従って攻撃を開始した。三川提督は攻撃に先立ち、麾下の各艦に本作戦の狙いを次のように訓令していた。

サボ島南方から突入し、ガ島泊地前面の敵艦隊を雷撃で駆逐。取り舵にて進路を北方に転じた後にツラギ基地の敵を攻撃したら、サボ島の北側から戦闘海域を離脱する。

 

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一見シンプルな指示だが、夜戦は初めてという艦も多く、いかに個別には訓練が十分でも、艦隊運動を考えればこれ以上は複雑にできなかった。そして、この明確な作戦方針が海戦の行方を決定的に左右することになる。

9日0136時、重巡鳥海が敵の南方部隊の艦影を認め、重巡キャンベラを雷撃したが、これは命中しなかった。同じタイミングで、鳥海の見張り員は北方部隊も確認している。直後にアメリカ駆逐艦のパターソンも日本艦隊発見の警報を発した。だが、日本側のほうが先手を取り続け、水上偵察機が吊光弾を投下することで敵艦隊の位置を照らし出すのに成功した。

日本艦隊の反撃を予想していた連合軍はサボ島の南北に警戒艦隊を配置していた。しかし指揮系統が明確でなく、また日本艦隊と接敵した場合の戦術原則も決めていなかったために、三川提督のシンプルな戦術に対応できなかった。

距離4000mから浴びせかけられる20cm砲弾が次々にキャンベラに命中し、すぐに戦闘不能になった。駆逐艦パターソンとバグレイも戦闘力を失い、退避した。南方部隊のうち重巡シカゴは、魚雷が命中するまで日本艦隊に気づかず、次にしたことは戦場からの離脱であった。

目前の敵を蹴散らしたのを確認した三川艦隊は、かねてからの予定通り北方に進路を変えて、先に視認していた敵北方部隊を攻撃した。勢いに乗る三川艦隊はためらわずに探照灯を使用した。この間、北方部隊は三川艦隊の正確な位置をつかめず、肝心の重巡は各個に敵の正確な砲撃に狙い打たれてしまった。青葉の的になったクインシーはまもなく」火災を発し、直後に3本の魚雷で轟沈した。せめてもの救いは反撃で放った主砲弾が鳥海の艦橋付近に命中したことか。加古と交戦したヴィンセンズもほぼ同様の経過をたどり、撃沈された。重巡アストリアでは、艦長がこの戦闘を同士討ちだと思い込んで、射撃停止命令を出すなど混乱を極めている間に、敵重巡3隻からの集中射撃を浴びて轟沈した。

ガ島の北方海域はやがて両軍の無数の艦艇が沈没し、海底が残骸で埋め尽くされるほどの戦闘が行われたことから、「鉄底海峡」と呼ばれることになった。だが、最初の敷石を埋めたのは連合軍の船だったことがわかる。

こうしてガ島攻防戦の第1ラウンドは日本の勝利に終わった。手持ちの寄せ集め艦隊で重巡4隻撃沈、1隻大破の戦果をあげた三川軍一は、海戦史に名提督としての座を占めることになった。しかし、第1次ソロモン海戦は大きな禍根を残した。連合軍の支援艦隊は撃破したが、上陸部隊用の軍需物資を満載した輸送船団を無傷で残したまま、三川艦隊が退避した。これにより上陸作戦自体は順調に進捗し、彼らが占領した飛行場はヘンダーソン飛行場として強化されて、以後のガ島攻防戦において連合軍側の優勢を決定づけたのであった。

ここに日本海軍、というより軍部全体の問題が集約されている。日露戦争での歴史的な勝利も影響して、日本海軍は極端な決戦主義に凝り固まっていた。自分たちの作戦を戦争全体の勝利につなげるという柔軟性がなく、陸海軍の作戦の協調を図る上級司令部も、適切に機能しなかったのだ。最終的には日本軍のみじめな敗北に終わるガ島攻防戦の結果から、戦後に三川提督の判断は誤りであったとして批判された。船団攻撃をする場合、再終結にかかる時間を考えると、退避時に敵空母搭載機から攻撃を受ける可能性があったと擁護する意見もあったが、実際にはアメリカ空母はガ島の東方に退避していたために、追撃の可能性はなかった。船団攻撃が成功する条件は十分に整っていたのだ。

しかし、実際のところ、三川の判断は海軍内では問題視されなかった。彼はガダルカナル攻防戦を通じて第八艦隊司令官の地位にあり、陣頭指揮を執り続けた。1943年4月に艦隊司令の任を解かれると、間をおいて第二南遣艦隊、第三南遣艦隊司令長官などを務め、終戦直前の5月に予備役となった。戦後は公には発言せずに隠棲し、1981年に93歳で永眠した。

夜戦に特化した猛訓練で鍛え抜かれた水雷戦隊は日本のWoWSプレイヤーにもよく知られているせいか、ゲーム内に「夜戦」導入を求める声も多い。しかし第一次ソロモン海戦を見れば、夜戦は混沌と孤立という、軍隊が最も嫌う環境と隣り合わせであり、この戦いを成立させるには、厳格な規律と艦隊運動が不可欠だということがわかるだろう。

 


 

解説文 : ウォーゲーミングジャパン ミリタリーアドバイザー 宮永忠将 / Phalanx

 

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