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Admirals of Japan : 東郷平八郎と秋山真之(前編)

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艦長の皆さん

 

歴史特集 「 Admirals of Japan 」 では日本の有名な提督と、その戦い方を見ていきます。

第二回目で取り上げるのは日露戦争で帝国海軍を勝利に導いた東郷平八郎と秋山真之の名コンビです。

 


 

東郷平八郎と秋山真之(前編)

1895年に日清戦争に勝利した日本は、朝鮮半島に大きな権益を持つこととなり、結果として満州への進出を強めるロシア帝国と対立した。 これがエスカレートして勃発したのが日露戦争だ。

 

1904年02月09日未明、ロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦部隊による奇襲攻撃と、日本陸軍第一軍の先遣部隊による仁川上陸作戦によって、戦争が始まった。

陸軍兵力 500 万、海軍艦艇51万トンを擁する大国ロシアに対して、日本は陸軍 75 万、艦艇 26 万トンに過ぎない。 もちろん広大な領土を持つロシアは、全戦力を極東に集中するわけにはいかないが、それでも日本の劣勢は明らかだ。 では、日本はいかなる戦略で大国ロシアとの戦争に臨んだのだろうか。

 

まず陸軍について、日本陸軍首脳部や政府中枢は、完全勝利は望めず、優勢を確保するあたりで戦力、国力とも底を突くと見積もっていた。 したがってロシアが整備を急いでいたシベリア鉄道の輸送力が増強される前に満州のロシア野戦軍を叩き、有利な講和に持ち込むのが陸軍の狙いであった。

海軍の任務は、満州に遠征している陸軍の兵站および輸送の安全確保が中心となる。 そのためにはウラジオストックと旅順( Port Arthur )を根拠地とするロシア極東艦隊を無力化する必要があった。

これに対して、ロシア海軍の戦略は単純明快であった。 旅順艦隊は艦隊現存主義を選んで、日本海軍を洋上に釘付けにしつつ、ロシア本国から遠征してくるバルト海艦隊の増援と協同して、日本海軍を粉砕するというものだ。 いくら陸で日本軍が善戦しても、海軍が敗れれば、瞬時に孤立し、降伏することになる。朝鮮半島も一気にロシアの支配下に組み込まれるだろう。

 

日本の海軍大臣であった山本権兵衛は、開戦の直前、連合艦隊司令長官を日高壮之丞から東郷平八郎に変更した。 これは異例の人事であり、山本と日高の不仲説など様々な憶測が、当時から巷間を賑わせた。 しかし実際のところは、日高の持病の悪化が主な理由であり、これを機に海軍中央の意向に忠実な東郷が選ばれたのだ。 東郷は連合艦隊の作戦担当参謀に、新進気鋭の秋山真之中佐を抜擢した。 この二人のコンビによって、日本海軍は後に奇跡のような勝利を演出することになる。

 

開戦劈頭の駆逐艦による奇襲は、ロシアの戦艦 2 隻、巡洋艦 1 隻に損害を与えはしたが、追撃戦には失敗して、湾内に旅順艦隊主力を取り逃がしてしまう。

そこで秋山中佐の発案により、旅順港閉塞作戦が実施された。 これは旅順港と外海を繋ぐ狭い水路に老朽船を沈めて、湾内に敵艦隊を封じ込めてしまうという作戦だ。 秋山は駐在武官としてアメリカに着任中、米西戦争を観戦する好機に恵まれており、とりわけ印象深かったサンチャゴ湾封鎖作戦を応用しようとしたのだ。

しかし都合 3 度の作戦は、すべて失敗している。旅順港湾口に設けられたロシア軍要塞砲は、威力、精度ともに秋山参謀の想定を超えたものであったのだ。

そこで次に日本艦隊は、港湾の出口に機雷を敷設して旅順艦隊を封じ込めようとした。 これが意外にも戦艦ペトロパブロフスクを撃沈し、太平洋艦隊司令官のステパン・マカロフ提督を戦死させるという戦果をあげた。 しかし 05月15日には、ロシアが対抗策として敷設した機雷により、日本は虎の子の戦艦初瀬、八島の2隻を失ってしまう。 以降、旅順艦隊は消極的になり、ともに決め手がないまま夏を迎えた。

 

事態は陸上で動き始めた。 乃木希典将軍が指揮を執る日本陸軍第三軍が旅順港に迫りつつあったため、「旅順艦隊は旅順港を出てウラジオストックに回航すべし」という勅命が発せられたのだ。 旅順艦隊司令官のウィトゲフト少将は、敵が待ち構えている旅順港外に出るのを自殺行為と考えていたが、勅命には逆らえず、08月10日に出撃した。

両艦隊の戦いは同日の 1230時に、遼東半島沖で勃発した。 日清戦争の決戦と同じく黄海海戦と呼ばれるが、より沖合での大規模な水上戦闘であった。 日本側の戦艦 4 隻と装甲巡洋艦 6 隻に対して、旅順艦隊は戦艦 6 隻と火力では上回っていたが、巡洋艦が老朽化していて数も少なく、艦隊全体の機動力で劣っていた。

 

これまでの戦いでは旅順艦隊が消極的だったことから、日本艦隊は敵の退路を断とうと動いた。 ところがウィトゲフトの今回の狙いは脱出であり、これをかわして東に向かったために、日本艦隊が旅順艦隊を追うという、これまでにない展開となった。 それでも日本艦隊は優速を活かして距離 6000m で先頭をいく旗艦、戦艦ツェザレヴィッチを捕らえると、次々に命中弾を与えた。

この時点で両艦隊には大きな違いがあった。 日本側は長い封鎖作戦で疲労していたものの、艦隊運動や射撃訓練に十分な時間を取ることができた。 一方、ほとんどの時間を湾内で過ごしていた旅順艦隊は練度で劣っていた。 また、日本側は敵艦の撃沈を重視せず、下瀬火薬という特別に爆発力が高い炸薬を充填した榴弾を多用して、装甲化されていない上構を破壊し、戦闘区画を焼き尽くして敵艦を無力化しようと考えていた。

 

果たして、展開は日本側が思い描いていたようになる。 ロシア艦は多数の命中弾によって次々に火災を発してしまう。 しかしウィトゲフトは当初の命令通りに、ウラジオストックを目指して全力で東に逃れようとする。 これまで消極的な敵艦隊の動きに馴れていた東郷とその幕僚は、敵が旅順に戻るものと進路を西に向けてしまったため、両艦隊の距離は 3万m にまで開いてしまった。

 

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1730時、日本側はどうにか旅順艦隊に追いつき、距離 7000 メートルで再度砲撃戦を開始した。 昼の長い夏であったため、砲撃戦を継続できたのが日本の幸運であった。 そうでなければ旅順艦隊を取り逃がし、大変な戦略的危機に陥るところであった。 そして 1837時、戦いの流れが大きく変わる。 戦艦三笠の砲弾が旗艦ツェザレヴィッチの司令塔に命中し、ウィトゲフト司令官以下、すべての幕僚を死傷させたのだ。 さらに悪いことに、躁舵員が舵輪に身体を預けたまま絶命してしまい、ツェザレヴィッチは急速左旋回をしてそのまま自軍艦隊に突っ込み、混乱を引き起こしてしまったのである。 これで海戦の勝負はついた。 日本艦隊は旅順艦隊を取り囲み、宵闇が迫る 0825時まで一方的な砲撃戦を展開した。

 

からくも駆逐艦の追撃をかわした旅順艦隊の残存部隊は、ウラジオストックへの回航を断念して個別に逃走を図った。 旅順に帰還できたのは戦艦 5 隻、巡洋艦 1 隻、駆逐艦 3 隻と、十分な数であった。 しかしいずれも酷く被弾して戦力にはならず、乗員は皆降ろされて、陸戦隊に編入された。

ただし、日本側も旅順艦隊の実情を知ることはできず、戦艦 5 隻を逃したことを警戒して、旅順封鎖は継続される。 結局、日本艦隊が封鎖任務から解放されたのは、乃木将軍の第三軍がおびただしい犠牲を払って旅順要塞を陥落させた 12月末のことであった。

 


 

解説文:ウォーゲーミングジャパン ミリタリーアドバイザー 宮永忠将 / Phalanx

ミリタリーアドバイザー 宮永忠将 / Phalanx の活動は Facebook ページでも配信中!

 

 

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