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Ladygrey

Admirals of Japan: 坪井航三

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艦長の皆さん

この新しい歴史特集では日本の有名な提督と、その戦い方を見ていきます。

第一回目で取り上げるのは「ミスター単縦陣」のあだ名を持つ坪井航三です!

 


 

坪井航三: 機動力で勝利を手繰り寄せた提督

産業革命に始まる科学技術の成果を得て、19 世紀後半に軍艦の性能は大きく進歩した。船体は木造から鋼鉄製に、動力は帆走から蒸気機関に、弾を砲の先端から押し込む前装砲から後装砲に、砲弾も実体弾から炸裂弾に、といった具合に、瞬く間に主力艦艇は姿を変えていったのだ。

 

しかしこの時代は、軍艦の進歩とは裏腹に、列強海軍の間で大きな海戦がなかったために、新しい軍艦を使ってどのように戦うかということについては定説がなかった。そして答えは意外なところ、アジアの海からやってきたのであった。

 

主役は二つの国。中国と日本だ。17 世紀に満州で興った清王朝が統治していた中国は、イギリスをはじめとする欧米列強による植民地化が進んでいたが、これに対抗するため 19 世紀には西洋化に踏み切り、近代海軍の整備を急いでいた。一方、日本も明治維新によって封建社会を脱すると、「富国強兵」を合言葉に社会の近代化を急いでいた。

 

急速な近代化を進めた両国は、帝国主義的な動きを強め、ともに朝鮮半島をめぐり利害でぶつかり合った。そして 1894 年 7 月に両国は日清戦争に突入したのである。

陸軍の決戦場は朝鮮半島北部であった。両軍とも膨大な物資や兵員を輸送するために、半島西部の黄海における海上交通路と港湾の支配が重要となり、海戦の勝敗が戦局を大きく左右することとなった。

 

このシーレーンをめぐる戦いについて、世界中の海軍関係者の多くは清国海軍が有利だと見なしていた。まず海軍のバックボーンとなる経済規模は、中国のほうがずっと大きい。なにより中国には排水量 7000 トンを超える2隻の定遠級装甲艦があった。ともにドイツのフルカン造船所製で、30.5 cm 連装砲2基を搭載していた世界でもトップクラスの装甲艦で、アジアの国が保有する軍艦としては当時最強の存在であった。

 

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定遠級装甲艦の二番艦「鎮遠」写真は向かって左側が艦首になる。レイアウト図の艦首喫水線下に巨大な衝角(ラム)があることからわかるように、この時代は体当たりも有効な戦術と見なされていた。

 

一方、日本には定遠級のような装甲艦をそろえる経済力はない。とはいえ対抗策を用意しなければ戦争にならない。そこでフランス人造船技師のエミール・ベルタンが設計した松島型巡洋艦 3 隻を調達した。これは船体こそ 4000 トン程度で、装甲も紙のような防護巡洋艦に過ぎなかったが、艦首ないし艦尾に 38 口径の 32 cm 単装砲を搭載した特異な形をしていた。

 

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松島型防護巡洋艦、ネームシップの「松島」主砲弾の装填速度が遅いうえに、舷側方向に射撃すると反動で艦が横滑りしたと言われるほどの、かなり無理がある巡洋艦であった。衝角も確認できる。

 

9 月 17 日についに主力艦隊同士の海戦が発生した。黄海海戦あるいは鴨緑江海戦として知られる海戦での両軍の陣営は、旧式艦や補助艦を除いた主力艦を見ると次の通りだ。

 

  • 日本: 巡洋艦 8 隻
  • 中国: 装甲艦 2 隻、巡洋艦 10 隻

     

主に中国の各艦に分乗していた列強各国の武官は、両軍の内容よりも艦隊陣形に目を奪われた。中国艦隊は定遠と鎮遠の装甲艦2隻を中心とした、傘型の単横陣をとり、対する日本艦隊は本隊と第一遊撃隊の 2 つがそれぞれ単縦陣を作って海戦に臨んでいたからだ。

 

なぜにこうも艦隊隊形に違いが生じたのか? 19 世紀後半という時代、進化した軍艦を用いてどのうように戦うかという問題には様々な研究が行われていた。基本的には強力な砲撃力で敵艦を攻撃すべしというのが共通認識であったが、防御力が向上した軍艦を砲撃だけで沈めるのは困難だとも考えられていた。しかし1866 年 7 月、イタリアとオーストリア帝国海軍の間で勃発したリッサ沖海戦では、イタリアの主力装甲艦レ・ディタリアが敵装甲艦の体当たりによって撃沈されてしまう。衝角、すなわち艦首喫水線下の部位を敵船体に当てて撃沈するという戦いは古臭いものと考えられていたが、この海戦により装甲艦を撃沈する有力な手段たりえると見なされたのだ。

 

清国海軍の戦術は、まず定遠型装甲艦の艦首の強力な砲撃力で日本艦隊を混乱させた後、全艦で突撃して日本艦隊を一気に殲滅しようとするものであった。この時代としてはかなり攻撃的な布陣である。

対する日本は、速度と手数に賭けた。主砲は口径こそかなわないが、数は優っている。また砲の大半は艦の側面に配置されているので、敵艦隊に側面を向けている時間が長いほど、大量の火力を投射できる。そこで単縦陣を採用したのだ。

 

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もしも海軍の練度が同じレベルだとすると、単縦陣の方が艦隊運動をしやすい。戦隊ごとに旗艦ないし目の前の艦の動きについていくのが基本であるからだ。ただし敵に側面をさらす時間が多いので、もし敵の砲撃が正確であったら一方的に大損害を受ける可能性が高い。

 

だが、日本海軍は迷わなかった。正直に言えば、当時の日本海軍の練度では複雑な艦隊機動はできなかった。事前にどれだけ巧みな艦隊運動を研究していても、演習では単縦陣を選んだ側が勝利していた。この単縦陣をもっとも推進していたのが、巡洋艦吉野を旗艦とする第一遊撃隊司令官、坪井航三海軍少将である。彼は海軍内でも「ミスター単縦陣」と呼ばれるほど、この艦隊陣形の有用性に着目していた。巡洋艦 4 隻からなる第一遊撃隊は、敵の真正面から突撃すると、1万 2000 メートルの位置で左に変進して、中国艦隊の右翼にいた揚威、超勇の2隻に砲撃を集中させたのである。

 

実を言うと、この時、艦隊司令は遊撃隊に対して敵左翼を攻撃するよう命令していた。しかし坪井司令はこれを誤解して、敵艦隊の右翼を攻撃したため、日本艦隊は最初から艦隊が分裂してしまう不手際を起こしていた。しかし第一遊撃隊が「速度 14 ノットの単縦陣」という原則だけは乱さず、まるで獲物を囲む大蛇のように戦場を縦横無尽に駆けたことで、清国艦隊は翻弄されて、主導権がつかめなかった。多数の命中弾により清国の艦艇には損害が続出し、戦闘力が奪われてしまったのである。結果として清国艦隊は 5 隻の巡洋艦を失い、海戦は日本の勝利に終わった。

 

黄海海戦はユニークな戦いだ。決して、勝利した日本軍が優れていたわけではなく、敗北につながりかねない危険なミスもあった。さらに言えば、勝敗が決した後の追撃戦でも単縦陣を墨守した結果、戦果を拡大するチャンスを逃してさえいる。ただ、通信技術が未発達なこの時代は、複雑な戦術よりも明確なドクトリンの方が、兵器の優劣を上回る威力があったとは言えるだろう。坪井少将は戦後に中将に昇進し、常備艦隊の司令長官にまで出世した。

この原稿を書いている時点では、World of Warships にはチームバトルが導入されたばかりだが、単縦陣と単横陣は艦隊陣形の二大基本形だ。まずは出来たてのチームの戦いは、このふたつの陣形をベースに磨かれることになるだろう。

 

ちなみに中国海軍の定遠、鎮遠はいかなる戦いを見せたのかというと、鎮遠の 30.5 cm 砲弾 1 発が巡洋艦松島に命中したのみであった。定遠にいたっては艦橋が焼け崩れて指揮能力を失い、戦力にさえなっていない。しかし、日本期待の松島型巡洋艦はもっとひどい。装填作業に難があるため、主砲は 1 時間にせいぜい 4 発しか撃てない。そればかりか、砲撃時の反動で艦の進路が変わってしまうような有様では、めまぐるしく変化する戦場では戦力にはなりようがなかったのだ。

黄海海戦は日清戦争の推移に決定的な影響を及ぼした。そして海戦史においては、リッサ沖海戦における衝角戦術が極めて例外的な成功であり、火力が重要であること。そして単縦陣の優位性と、これを活かすための速度が海戦の行方を左右することが公式化した。以降、艦隊陣形は単縦陣とその応用が主流となり、今日にいたっている。

 


 

解説文:ウォーゲーミングジャパン ミリタリーアドバイザー 宮永忠将 / Phalanx

ミリタリーアドバイザー 宮永忠将 / Phalanx の活動は Facebook ページでも配信中!

 

 

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